2022年に解体決定、中銀カプセルタワービル
中銀カプセルタワービルについて
2022年に解体が予定されている「中銀カプセルタワービル」。1972年竣工で、設計者は世界的な建築家・黒川紀章です。世界で初めて実用化されたカプセル型のマンションでした。
平均年収が100万円の時代に一戸450万円前後で販売されました。高度経済成長のさなか発展を続ける日本で、技術が更に発展すれば、自宅や職場以外の居場所が必要になるという未来を黒川紀章は描きました。
1つ1つのカプセルは同じ大きさで、当時のトレーラーで輸送できる最大のサイズでした。広さは約5畳で、備え付けの収納棚と当時の最新設備だったユニットバス、オプションでベッドがつけられました。大きな窓はすべてのカプセルに取り付けられています。ビジネスマンのセカンドハウス的な構想で作られたため、必要最低限のものがコンパクトに組み込まれた物件でした。そのため、簡易的な流し台はあったもののキッチンや洗濯機置き場はありませんでした。
メタボリズム カプセル
黒川紀章は、都市が発展過程で新陳代謝(メタボリズム)したり、増殖したりするような変化を受け入れる骨組みを作ることを思考していました。1つ1つ新陳代謝されるように、カプセルが古くなったら新しいカプセルと交換できるように設計されました。実際には交換困難なカプセルがあったりと、カプセルが交換されることはありませんでした。 解体されたあとは、1つ1つのカプセルが世界中へ散り散りとなり、様々な形で利用されることになるそうです。
黒川紀章さんの年表
1934年4月8日、愛知県名古屋市に産まれました。父・黒川巳喜も建築家でした。
1945年、名古屋大空襲で焼け野原となった故郷で、黒川建築事務所を設立した父を見て、「建築家こそ時代をつくる職業だ!」と同じ建築家の道へ進みました。
1957年、東京大学大学院工学研究科建築学選考修士課程へ進学し、丹下健三の研究室に入り、都市設計を学びました。
1959年、当時の若い建築家とメタボリズムを提唱。これは、戦後の高度経済成長により変化していく社会や、戦後急激に増加した人口の成長に合わせて都市も生き物のように変化すべきという考えでした。
1970年、大阪万博で2つのカプセル建築を披露し、世界から賞賛されました。
1972年、中銀カプセルタワービルが竣工しました。
1973年、第1次オイルショックにより、消費者物価指数が23%上昇し、日本の消費が低迷しました。
1974年、戦後初めてマイナス成長となり、高度経済成長が突然、終わりました。そのため、進行していたカプセル住宅の建築が白紙となりました。また、建築業界が不況に陥りました。
1979年、世界初のカプセルホテルが大阪に誕生しました。カプセルベッドは全世界に輸出され、海外で評価を得ました。
1998年、カザフスタンの新しい首都を建設する国際コンペで1位に選出され、採用されました。黒川紀章の都市計画案に基づき開発が続けられています。2030年完成予定です。
2007年4月、東京都知事選に出馬し、落選しました。
2007年10月12日、すい臓がんにより亡くなりました。
遺作は、2016年12月25日に開場されたロシアのガスプロム・アリーナです。
中銀カプセルタワービルの詳細
所在 | 東京都中央区銀座8-16-10 |
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アクセス | ゆりかもめ汐留駅5番出口より徒歩4分 |
中銀カプセルタワービルの地図