相沢忠洋

相沢忠洋

1926年6月21日~1989年5月22日

日本の考古学者。
岩宿遺跡の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、日本に旧石器時代が存在したことを証明した。

<キーワードとなる年表>
1926年、東京・羽田で生誕
1934年、鎌倉へ転居
1935年、両親離婚。群馬県桐生市へ移住。
1937年、小僧奉公に出される。
1944年~45年、海兵団へ入団。駆逐艦「蔦」の乗組員
1945年、終戦。桐生市へ復員。考古学研究をしながら行商を始める。
1948年、不二山遺跡発見(前期旧石器時代・約5万年~6万年前)
1949年、岩宿遺跡発見(日本で初めての旧石器文化の学術調査)
1950年、権現山遺跡発見(前期旧石器時代・約4万5千年前)
1951年、桝形遺跡発掘調査
1955年、結婚
1958年、西鹿田遺跡発掘調査
1961年、群馬県から県功労賞を受章
1967年、吉川英治文化賞を受賞
1970年、磯遺跡発掘調査(前期旧石器時代・約10万年前)
1972年、夏井戸遺跡発掘調査(前期旧石器時代・約10万年前) 1989年、死去

参考図書:岩宿遺跡のなぞ (てのり文庫 337B12)

相沢忠洋 ゆかりの地

  • 岩宿遺跡

    岩宿遺跡

    日本に旧石器時代があった事が証明された遺跡。

    住所 群馬県みどり市笠懸町阿左美1790-1

  • 相沢忠洋記念館

    相沢忠洋記念館

    薩摩藩英国留学生の留学の旅と帰国後の人生についてご紹介。

    住所 群馬県桐生市新里町奥沢537

相沢忠洋、誕生

家族について

1926年6月21日に相沢忠洋さんは、東京・羽田で誕生しました。相沢忠洋さんを筆頭に、妹三人と弟一人の5人兄弟でした。父は横笛吹きの芸人で、地方を巡業していたため留守がちでした。父からの仕送りが途絶えがちなため、母は内職をして生計を支えていました。決して楽な生活ではないけれど、賑やかに過ごしていました。

鎌倉へ転居

1934年、小学校3年生の時に鎌倉へ転居しました。そこで忠洋少年にとって運命の出会いがありました。家の近くの工事現場で焼き物のかけらを見つけました。その時のかけらが大昔の縄文時代の器だということを教えてもらい、憧れを抱くようになりました。

両親の離婚

父の留守の間に一番下の妹が亡くなりました。それを知った父は母と険悪になり、離婚しました。妹や弟は散り散りになり、忠洋少年は父に引き取られましたが、たらい回しのように方々に預けられ落ち着かない日々を過ごしました。

それでも大昔に憧れを抱いていた忠洋少年は、寂しい中でも遺跡や寺を見られる鎌倉が大好きでした。ところが1937年の夏、群馬県桐生市へ引っ越すことになりました。

小僧奉公時代

群馬県桐生市でも土器が遊び場から見つかり、忠洋少年は生活を楽しんでいました。しかし父の仕事の都合で小学校5年生からはきもの屋に、小僧奉公に出されることになりました。

小僧奉公とは、商家に住み込みで働く小僧の事です。色々な決まりがあり、朝一番に起きて店の前を掃く仕事、学校へ行けるようになるのは半年勤めあげてからでした。更に休みがもらえるのは、一年勤めあげてからで月に2日でした。そして好きな所へ行っても良いのは1日だけでした。

そんな生活の中でも考古学への情熱は冷めることなく、月にたった2日の休みの間に博物館へ行って勉強したり、自転車で遠くへ発掘しに行ったりしていました。

仕事が終わってからの夜学通いも忠洋少年にとっては、嬉しかった事でしょう。

最終学歴・青年学校

1939年3月、忠洋少年は夜間の尋常小学校を卒業しました。小僧奉公をしている者たちはここで、学歴を終えることがほとんどでした。

ただ、1935年からは尋常小学校へ進まない者は青年学校へ行かなければならないと定められていました。青年学校とは、当時の義務教育期間である尋常小学校6年を卒業した後に、中等教育学校に進学せずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行っていました。

青年学校も、仕事が済んだあとの夜間通学を許され通いました。忠洋少年の最終学歴は、青年学校です。

戦争へ

1937年から始まった日中戦争と1941年12月8日の日本軍の米軍に対する真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発。忠洋少年も戦争の渦の中へ飲み込まれていきました。敗戦が濃厚なのに日本軍は戦いを続けるため、若者をどんどん戦場へ送り込みました。神風特攻隊なる恐ろしい作戦をも進めて行きました。

1943年、17歳となった忠洋少年は海軍に志願するため、店をやめて父のいる桐生へ帰りました。
1944年5月、海軍入隊の通知が届きました。
1945年2月、駆逐艦「蔦」に乗り、瀬戸内海へ向け出航。
1945年8月15日、山口県の南東部にある小さな漁村の海岸で潜みながら終戦を迎えました。

終戦後、行商をしながら考古学の道へ

戦争が終わり、桐生市に復員してからは、行商をして日々を暮らしました。

岩宿遺跡の発見

赤城山の人々はいつから住み始めたのだろうという疑問と一緒に、行商中をしながら遺跡を発掘していました。日本列島に人々がいたのは5000年前の縄文時代のことで、それまでは無人島だったと考えられていました。 つまり、日本には旧石器時代がなかったという事が定説でした。

何故かというと、縄文時代前期以前は火山が頻繁で、とても人類が生活できる環境ではなかったと考えられていたからでした。そのため、その時代に降り積もった赤土(関東ローム層)では絶対に出土しない!と思われていました。

ところが1949年9月11日、赤土の中に細石器に似たかけらを発見したのです。注意深く観察すると明らかに人工の手が加えられた形跡がありました。世紀の大発見の瞬間でした。

認められない発見

岩宿遺跡の発掘により日本の旧石器時代は存在していたとする重大な発見を、相手にしてくれる人はいませんでした。それどころか、大学も出ていない行商風情が何を言っているかのように無視をされました。 地元住人からも非難を浴びる始末でした。

それでも地道に活動をし、いくつかの遺跡を発掘すると、誰も何も言えなくなり次第に認められていきました。
1961年、群馬県から県功労賞で表彰され、岩宿遺跡発見から12年の歳月を経てようやく正当な評価がされるようになったのでした。
1967年吉川英治文化賞(優れた文化活動に取り組んだ人物や団体に贈賞する制度)を受賞するに至ります。

晩年

更なる大昔の日本の歴史を更新するべく、発掘に挑み続けました。廃車のバスを利用した考古学の研究室と二棟のトタンぶきの小屋(トイレと炊事場)でなる赤城人類文化研究所で、 夏井戸遺跡を発掘しました。

少年時代に目を輝かせながら大昔の日本への憧れを抱き、岩宿遺跡発見後も大昔の日本の歴史を更新した考古学者・相沢忠洋さんは、1989年5月22日脳内出血により生涯を閉じました。

その功績は、日本列島に人々が住み始めたのは縄文時代からのことであり、日本に旧石器時代はなかったと考えられていた時代に岩宿遺跡を発掘し、日本にも「旧石器時代」があったことを証明したことです。また、学歴がなくても、学者になれる事を証明しました。