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五代友厚

1836年2月12日~1885年9月25日

<キーワードとなる年表>
1836年、五代友厚生誕
1853年、ペリー来航
1858年、長崎へ遊学
1860年、上海へ。この時、高杉晋作に会っていたらしい。
1863年、御船奉行副役となる。生麦事件。薩英戦争。イギリス軍の捕えられる
1865年、薩摩藩遣英使節団
1868年、戊辰戦争勃発。神戸事件、堺事件、イギリスパークス襲撃事件。大阪に造幣寮(造幣局)誘致。初代大阪税関長となる。
1867年、坂本ひろ子(女子1人)と結婚するも後に離婚
1869年、民間へ
1870年、豊子と結婚(2男4女)
1885年、糖尿病により死去

2020年7月18日に30歳の若さで亡くなった三浦春馬さん。最後の主演映画で演じた五代友厚とは、どんな人物だったのかを調べてみました。天下の台所だった大阪は、明治維新により貨幣制度が大きく変わり、大打撃を受けました。そんな大阪の経済を支え、現在の大阪の礎を築いた人でした。

五代友厚 ゆかりの地

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    若き薩摩の群像

    薩摩藩英国留学生をモチーフにした像。

    住所 JR鹿児島中央駅前東口広場

  • 大阪市公会堂

    薩摩藩英国留学生記念館

    薩摩藩英国留学生の留学の旅と帰国後の人生についてご紹介。

    住所 鹿児島県いちき串木野市羽島4930

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    観光丸

    長崎海軍伝習所の練習船。史実に基づいて復元されました。

    住所 長崎県長崎市元船町17-1

  • グラバー邸

    グラバー邸

    長崎に潜伏中、懇意にしていた外国人。外国機械や武器を仕入れる際等、協力してもらった。

    住所 長崎県長崎市南山手町8-1

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    小菅集船所(ソロバンドック)

    小松帯刀、五大友厚、グラバーの共同出資と大阪の有力町人からの出資で船の修理を目的として建てられた。長崎造船所の基礎となった。

    住所 長崎県長崎市小菅町5

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    旧造幣寮鋳造所正面玄関

    文系開花の窓口に。

    住所 大阪府大阪市北区天満橋一丁目

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    大阪商工会議所

    五大友厚像がある。

    住所 大阪府大阪市中央区本町橋2-8

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    大阪取引所

    五代友厚像がある

    住所 大阪府大阪市中央区北浜1-8-16

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    五大友厚お墓(阿倍野墓地)

    糖尿病により死去。

    住所 大阪市阿倍野区阿倍野筋4-19

五大友厚、生誕から青年期

父は薩摩藩士である五代秀尭、母・本田氏やす子のもとに次男として誕生。幼名を才助といい、才をたたえて藩主(島津斉興)から名付けられました。 父は漢学に深い知識を持ち、町奉行を兼ね、藩主・島津家のブレーンの一人でした。 五代家は代々300~500石の家柄で、薩摩藩総家中で400石取り以上は10%程度だったことから、家格に禄高も高いほうに属していました。

才助が8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学びました。本当かどうかは定かではないけれど、才助が14歳のとき、藩主が父・秀尭にポルトガル人から入手した世界地図の模写を命じた。父の代わりに模写したのは友厚で、2枚複写し、1枚を自分の部屋に飾ったという逸話があります。

長崎へ遊学

才助17歳の1853年は波乱の年でした。父・五代秀尭の死去があり、ペリーが黒船で日本へ来航しました。才助は、当時の武家としては一通りの教養を身に着けていましたが、時代を担う青年としては不十分でした。 もっと勉強したい、もっと世界の情勢を知りたい!それが、長崎への遊学へとつながります。

1858年、才助は薩摩藩より選抜されて長崎の海軍伝習所へ留学を命じられました。授業は航海運用術、造船砲術、砲術訓練、算術等があり全て通訳を介して学びました。 しかし、島津斉彬が急死し突然帰国を命じられてしまいます。

上海へ

1862年、幕府がイギリスから購入した木造船・千歳丸に高杉晋作や五大友厚等を乗せ、長崎から上海へ向かいました。50日程度の滞在だったそうです。詳細は定かではありませんが、才助は千歳丸が上海へ渡航するという情報を聞きつけ、水夫に変装して乗り込み、世界の状況を実際に見に行きました。

幕末の激動の渦の中へ

生麦事件→薩英戦争

才助が上海から帰国して間もない1863年9月、事件が起きます。幕政改革のため江戸城入りしていた薩摩藩国父・島津斉彬の行列にイギリス人4人が下馬もせず通行しました。大名行列に突っ込む者など、もっての他!切り捨て御免が日本の習わしでした。憤怒した薩摩藩士らにイギリス人が斬り殺される事件が起きました。それが生麦事件です。

そして生麦事件が原因で薩英戦争が起こります。

この頃薩摩は、青鷹丸(Sir George Grey)、天祐丸(England)、白鳳丸(Contest)という3隻の蒸気船を所有していました。寺島宗徳と五大友厚が御船奉行副役として、これを管理していました。船がイギリス軍に拿捕され、寺島と五代が自発的に捕虜となります。ただの捕虜になった訳ではなく、薩摩を救うためにとった行動でした。それは「薩摩には大量の武器がある。陸戦になれば死を恐れる輩ではない。そのため古来より武勇を知られている」と垂れ流したと言います。薩摩との砲撃戦を繰り広げ、苦戦を強いられたイギリス艦隊にとって横浜へ引き揚げるのに十分な話でした。

イギリスは五代らを人質として交渉に使おうとしていましたが、英国提督クーパーが切腹等されては面倒なことになると無条件に開放されました。こうして薩摩を救ったのですが当時の日本は攘夷(外国人を追い払え)が叫ばれていて、船を拿捕された挙句、捕虜になったという状況は命の危険が及ぶ出来事です。そのため、攘夷思想が渦巻く国元の薩摩に帰国することができず、しばし潜伏生活を送ることになりました。

潜伏生活

捕虜となっていた英艦に乗り合わせていた通訳清水卯三郎と医師松本良順の世話により、江戸の吉田六左衛門宅で亡命生活を送ることになりました。潜伏生活を脱したのは、薩摩藩とイギリスとの間で講和談判が成ってからでした。この交渉中に薩摩側がイギリスに軍艦購入の周旋を依頼し、親密な関係が築かれていくことになりました。

友厚は、藩論の変化を感じ取り、吉田六左衛門の息子を連れて潜伏生活をやめ長崎に移りました。長崎では幕臣酒井三蔵の屋敷や、グラバー邸に身をひそめました。

友厚が目指した日本の形

現状の日本が外国とことを構えるのは得策ではなく、開国をして富国強兵が成ったのち、攘夷をするという考えを持っていました。
そのためにはまず、
1. 米・海産物などを上海に輸出し、これによって利益を得る。
2. その利益で、製糖機械を購入し砂糖を製造、販売して収益を得よ。
3. 砂糖輸出で得た収益で留学生を派遣、そして同行する視察員が軍艦、大砲、小銃、紡績機械を買い付けること。
4. 貿易だけでなく、学校・病院・化学・印刷・鉄道・電話設備など産業革命の技術を学ぶこと。
この貿易で得た利益で英仏両国へ留学生を派遣することと、提案しました。

薩摩藩英国留学生の派遣

友厚の提案により15名の留学生が、グラバー商会が手配した蒸気船で薩摩の羽島沖から欧州に向けて旅たちました。そして友厚も引率者として同行しました。この時派遣された10代~20代前半の若者たちは後の日本の表舞台で活躍することになりました。まさに大成功といえる留学でした。

友厚には留学生の監督のほか、イギリスとの親善、ヨーロッパの政治・経済・社会の視察、物資(武器)の調達の役目がありました。ここで買い付けたのは武器がほとんどでしたが、紡績機械を購入していました。これを鹿児島紡績所に設置され、我が国最初の洋式紡績機械となりました。

こうしてヨーロッパの情勢を見つめた友厚は、薩摩藩主に以下の富国強兵策を送ります。

① ベルギーとの和親条約締結
② ベルギー商社建営
③ 鹿児島で貴賤を問わず商社開設すべきこと
④ 商社合力でなければ大事業成り立ちがたいこと
⑤ 諸大名同志が合力する商社を開くべきこと
⑥ 日本において貿易開始すること
⑦ ヨーロッパの形勢の大略
⑧ ドイツ列国に学び諸大名の会盟すべきこと
⑨ 皇国の全力をもって尽くさなければ鴻業成り立ちがたいこと
⑩ フランス万博へ出品すべきこと
⑪ 木綿紡績機関商社を開設すべきこと
⑫ フランスへ蚕卵を輸出する商社を越前に開くべきこと
⑬ ヨーロッパから土質学の達人を招致し、鹿児島で資源を探索すべきこと
⑭ 罪人の死罪を免じ、職を与えるべきこと
⑮ 養院を開設すべきこと
⑯ 各家老の専管事項を明確化し、それに委任すべきこと
⑰ 諸役人を省力化し、海陸軍の専門化を図るべきこと
⑱ 中国人、インド人を農業労働者として雇用すべきこと

のちに実業家として歩む五代友厚の素地はこの時、作られたといいます。

この留学中に、パリ万博が開かれることを知った友厚は、薩摩藩として出品。江戸幕府、佐賀藩もそれそれに出品しました。これについて薩摩藩に幕府は抗議しましたが聞き入れず、日本における幕府の地位が危うくなっている事情を表すことになりました。

新政府発足

1867年11月9日に大政奉還が行われ、1868年1月3日の王政復古の大号令により、明治政府が発足しました。

1869年2月、参与職外国事務局判事に任命され、大阪在勤となりました。ここでの仕事は、外国貿易関係事務を管轄することでした。日米修好条約では開かれなかった大阪は、日本経済でも貿易の重要な要地としていた。外国人たちの強い要望があり開港することになり、友厚は大阪開港に備えるため波止場を新設、大阪開港規則、貿易の正常化、取り締まりの厳格化、外国人接待所としての松島遊郭の設置など忙しく動き回りました。

開港すると、懇意にしていた外国人から電信設置や鉄道敷設を打診されるも、国家が行うべき事業だとして一蹴。私情を持ち込まず、経済の中心である大阪を不正等から守るために、厳しく取り締まるさまに内からも非難の声が上がります。

(理由はそれだけじゃありませんが)藩によって様々なお金が使われていた日本では、開国時に貨幣制度が混乱しました。外国人からの抗議により、友厚は政府に掛け合い大阪に造幣寮を建設します。 日本で初めての会社、為替会社が全国主要都市に設立することになりました。

しかし、大阪では同族経営(親族で経営する組織)が主だったため、他家と結びつき共同して経営する合力会社に抵抗のある人々がいました。友厚が説得して奔走し結集させることに成功し、設立後は指導にあたりました。 こうして、大阪の有力人物達と深く交わり、存在感を大きくしていったのでした。

1869年5月、会計官権判事として横浜に転勤するよう命じられます。これには大阪から留任して欲しい旨の嘆願書が送られたそうです。横浜での仕事を二か月余りで辞任し、公務をやめ民間に下り商工業の発展に尽力しようと、大阪へ戻る決意をします。

1875年2月、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが協議した明治憲政史上重大会議である大阪会議では手腕を発揮し、3人の異なる意見をまとめたのが友厚でした。この準備会談の場は五代邸で、大久保利通や伊藤博文が何度も訪れたといいます。そんな仲立ちをしながらも、何度か政府から勧誘が来るも、政界へ復帰せず実業家の道を邁進していきました。

五大友厚、民間へ

① 金銀分析所(1869)
悪貨、良貨が入り混じる日本の貨幣を分析し、地銀を取り出し、造幣寮へ納める機関を設置しました。これは五代の独占的事業となり、起業家活動の原資になりました。

② 大阪活版所(1870)
英和辞書「薩摩辞書」の刊行。友厚が5000円の融資をし、設立。

③ 鉱山経営「弘成館」(1873)
鉱山の維持管理のために設置された近代的経営組織。設備は全て洋式でした。三井・三菱・古河などの鉱山経営の手本となりました。

④ 製藍業「朝陽館」(1876)
国産の藍がインド産に圧され、さらに粗悪な藍が出回っていたのを憂い設立。最新設備を導入し、国産の製品を作って国内市場を守り外国へ進出をはかろうとしましたが、失敗に終わります。

⑤ 堂島米商会所設立(1876)

⑥ 大阪株式取引所(大阪取引所)を設立(1878)

⑦ 大阪商法会議所(大阪商工会議所)を設立(1878)
初代会頭に就任。大阪の実業家たちの一致団結による協力と意見交換の場。大阪の繁栄を軸に国富を増強させる趣旨のもと設立。

⑧大阪商業講習所(大阪市立大学)を創設(1879)
簿記 、商法学(商学)などを教えるため学校をつくるため友厚は多額の寄付金、創立費を出しました。

⑨ 大阪青銅会社(1881)

⑩ 神戸桟橋会社(1884)開業

友厚は、日本が諸外国に並んで強い国になる事を念頭において事業を興しました。余談ですが、潜伏中世話になった吉田六左衛門の息子を岩代平田山の鉱山長に、酒井三蔵を大阪活版所の所長にとりたてました。義理と人情に厚い人だったんですね。

パワフルに日本(大阪)の繁栄に貢献した五代友厚は、1885年9月25日、糖尿病により死去しました。49歳でした。