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辰野金吾

1854年10月13日~1919年3月25日


<主な作品>
■ 東京駅
■ 日本銀行本店
■ 日本銀行小樽支店etc…


<キーワードとなる年表>
1854年、姫松蔵右衛門とオマツの間に次男として生誕。この年、鎖国中の日本が日米和親条約締結。
1868年、辰野宗安の養子となる。明治時代へ
1871年、耐恒寮入学
1873年、工部大学校一期生として入学
1879年、造家学科を首席で卒業
1914年、東京駅(中央停車場)完成
1919年(大正8年)、国会議事堂のコンペで審査員を務める。スペインかぜに罹患し、64歳で逝去。

肥前国唐津出身。ジョサイア・コンドルの弟子の一人、東京駅を設計しました。
設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれました。日本の建築界の始まりを担った人物です。

現存する辰野金吾作 建築

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    東京駅

    辰野金吾の代表作。国の重要文化財。2012年に完全復元された。

    住所  東京都千代田区丸の内1丁目

  • 大阪市公会堂

    大阪市中央公会堂

    ネオ・ルネサンス様式によるモダンな建物。アインシュタインも訪れた事がある。

    住所 大阪府大阪市北区中之島1-1-27

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    日本銀行本店

    東京の建築遺産50選に指定。ベルギー国立銀行を参考にした。

    住所 東京都中央区日本橋本石町2-1-1

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    浜寺公園駅

    国の登録有形文化財。現在はカフェ、イベントスペースになっている。

    住所 大阪府大阪市西区浜寺公園町二丁

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    奈良ホテル

    アインシュタイン・ヘレンケラー・マーロンブランドが宿泊したことがある。

    住所 奈良県奈良市高畑町1096

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    日本銀行小樽支店

    石造り風の外壁が美しい。八幡製鉄所で作られた鉄骨が使用されている。

    住所 北海道小樽市色内1-11-16

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    松本健次郎邸

    国の重要文化財。アール・ヌーヴォー様式。年2回一般開放されている。

    住所 福岡県北九州市戸畑区一枝1-4-33

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    南天苑本館

    辰野金吾の希少な和風建築の一つ。侘び寂びの意匠が施されている。

    住所 大阪府河内長野市天見158

辰野金吾、誕生

力よりも”知識と知恵”

辰野金吾は、佐賀県唐津市に生まれました。父の名前は、姫松蔵右衛門。母はマツです。 父は武士でも身分の低く、12階級の上から11番目でした。主な役目は、戦で先陣に立つ武士に食事の世話をする、 “まかない夫”でした。 そのため身分の高い武士の子供達から虐められることもしばしば…。また体も小さかった金吾は、 「知識と知恵をつけることが武器になる」と考えていました。

鉄砲隊へ

金吾が生まれたのは1854年です。 1854年の日本では日米和親条約締結、1858年、日米修好通商条約締結と、日本にとって不平等な条約を結び、 内乱が始まろうとしていた時でした。 そのため、各地で「外国人を追い払おう」(=攘夷)という活動が起こっていました。その活動がやがて、 第15代将軍徳川慶喜が実権を握る幕府を倒そう!とする勢力を生み出します。 唐津藩主小笠原長国の養子・小笠原長行は幕府側に立って指揮をとりました。 このような時代の流れの中で、13歳の時鉄砲隊へ入隊しました。 しかし、幕府は1867年大政奉還により政権を朝廷へ返上、260年以上続いた江戸時代が終わりました。

辰野宗安の養子へ

幕府が倒れた為に、武士は藩の仕事がなくなりました。金吾の父もそうでした。 姫松家の生活は苦しくなり、次男だった金吾は、子供がいなかった辰野宗安の養子となり、 “辰野金吾”となりました。

建築家・辰野金吾が誕生するまで

耐恒寮入学

唐津藩の立て直しを図ろうと、新たな人材育成の場として耐恒寮が開設されました。 そこに金吾も入学しました。 教師は、借金返済のため18歳で赴任した”高橋是清(後の第20代内閣総理大臣)”でした。 女子の入学を受け入れる先進的な学校でした。 ところが、開校からおよそ一年がたち、学校の財源がつきはて、閉校となってしまいました。

工部大学校入学

1873年の春、政府の工部省(工業の発展のために設置さてた役所)が創設した工部大学校が設立されました。 これは技術者養成機関として日本の工業技術の礎を築き、工業の発展に大きな役割を果たしました。

この学校は、官費で学べ、生活費が出され、とベッドや食事つきの寮に入れるというビップ待遇でした。 その代わり6年間修学し、卒業設楽工部省代わりら指示される仕事につく義務がありました。 そして、その寮に入れるのは入学試験の成績上位者のみという条件付きでした。 定員は40人で、官費で入学できるのは上位20人でした。それに漏れると入学はできても、 授業料は自費で通学しなければなりません。

第1回の試験には合格するも官費生の枠からもれてしまいます。 第2回の試験は、官費生をあと10人追加するために行われました。 金吾は、この時の試験で10人のうちの10番目で幸運にも?!何とか入寮することができました。

造家学科へ

金吾は最初、造船学を希望していました。ところが学科には造船はなく、 土木、機械、電信、化学、冶金、鉱山、造家の7つでした。 金吾は、人気学科は成績が良い学生ばかりになりそうだったので、志望者が少ない”造家学科”に決めました。

造家学科は当時の日本では新しい世界でした。 日本の家づくりは棟梁から技術を弟子へ受け継ぐもので、”建築家”という職業がありませんでした。

お雇い外国人として日本へやってきたジョサイア・コンドルが教えたのは、 建物の構造、材料学、デザイン、芸術にまでおよび、机の上ばかりではなく現場で経験を積ませるものでした。

金吾は誰よりも勉強をして、卒業試験で首席になりました。ギリギリで工部大学校の官費生になれた金吾が首席で卒業なんてビックリです!

ヨーロッパ留学

工部大学校を卒業すると待っていたのは海外留学でした。このころの留学は遺書を書いて行くほど、命がけでした。

金吾は、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに通いながら、ウィリアム・バージェスの建築事務所で働きました。

バージェスが教えたのは、”建築は、自分の国の文化と密接につながっている。それを知らなければ良い建築は作れない”という事でした。 余談ですが、ジョサイア・コンドルも日本の画家について浮世絵を学んだり、日本の文化に触れていました。 そうして、金吾は建物の細部に渡りスケッチをするようになりました(滞欧野帳)。

建築家・辰野金吾

日本銀行本店

日本銀行本手の建設は金吾にとって初めての大きな仕事でした。 設計するために、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、ベルギーの銀行をまわりました。 外国の銀行を対等に渡りあえるように、海外にアピールできる見た目と、頑丈さが欲しいという要求がありました。

ライバル妻木頼黄

1859年、旗本という身分の高い武士の家で生まれた。 西洋建築が流行っている時に日本独特の屋根の形を採用した純和風の日本勧業銀行本店や、 ドイツ流の建築様式の横浜正金銀行など、努力家の金吾とは正反対の、天性の才能が備わっていました。

東京駅建設

計画されてから10年立ち、金吾のもとに来ました。 1914年12月20日に開業。 できた当時は、機能的に不便、設計ミスだ等と、弟子からも批判されたりしました。 1923年9月1日関東大震災では、大きな被害はありませんでした。 1945年5月25日、太平洋戦争による東京大空襲の大火災で大ダメージを受けました。 2012年10月1日、復元工事が完成。創建当時の姿が現代に蘇りました。

辰野金吾がコンペを発案

当時としては珍しかった建築設計競技(コンペ)を主張しました。 広く図面を集め、審査して、一番よいものを選びとる方式は今でこそ、当たり前ですが、当時は受け入れられませんでした。 1919年、懸賞方式による審査が採用され、国会議事堂の建設が始まりました。 その5日後に、スペインかぜ(当時大流行したインフルエンザ)により逝去しました。

まだまだある!辰野金吾設計の建物

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    旧唐津銀行

    辰野金吾監督のもと弟子の田中実が設計を担当。クイーン・アン様式を日本化した辰野式。

    住所 佐賀県唐津市本町1513-15

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    大分銀行赤レンガ館

    現在でも銀行業務が行われている。辰野式と呼ばれる独特のデザインが反映されている。

    住所 大分県大分市府内町2-2-1

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    武雄温泉新館・楼門

    国の重要文化財。釘を一本も使わず建てられている。

    住所 佐賀県武雄市武雄町大字武雄

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