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水野勝成

1564年9月20日~1651年5月4日


徳川家康(母が水野家で、水野忠重の姉)より22歳下の従兄弟。

戦国時代から江戸時代初期にかけえ活躍した武将。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のいる正に群雄割拠の時代に武士としての生き方を貫ぬいた侍。

いつも一番槍で戦をかけ回り、大物大名から次々に声がかかった。

関ケ原の合戦の後は、備後福山藩の初代藩主となり善政を敷いた。

戦国時代は恐ろしい世の中だけれど、こういった人物がいるから、かっこいい。
大河ドラマにしたら面白そうですが、相当女の人にもおモテになり流浪中には、今の言葉で言うと遊んでいたようなので、難しそうだな…と思ったりしました。

水野勝成ゆかりの地

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    隈本城

    佐々成政が責任をとって切腹した、隈部親永の反乱の舞台。

    住所 熊本県熊本市中央区本丸1-1

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    大垣城

    天下分け目の関ケ原の戦いで勝成が落とした城。

    住所  岐阜県大垣市郭町2-52

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    本渡城

    小西行長に仕えていた時、落とした城。二の丸には切支丹館が建てられている。

    住所 熊本県天草市本渡町本戸馬場

  • 福山城

    福山城

    関ケ原の戦い後、西国に睨みをきかせるため、唯一築城されたお城。

    住所 広島県福山市丸之内1-8

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    蓮池公園

    勝成によって整備された福山上水。領民の飲み水を確保した。

    住所 広島県福山市木之庄町1-7-1

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    福山八幡宮

    福山城築城と城下町の整備に伴い城下に祀られるようになった神社

    住所 広島県福山市北吉津町1-2-16

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    賢忠寺

    水野家の菩提寺。400年前の砂時計と、関ケ原の戦いで使用した甲冑を所用している。

    住所 広島県福山市寺町4-24

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    草戸稲荷神社

    福山で最も有名な神社。度々洪水に悩まされていた為、勝成が現在の地に移したという。

    住所 広島県福山市草戸町1467

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    沼名前神社

    息子・勝俊が寄進した能舞台。国の重要文化財。

    住所 広島県福山市鞆町1225

水野勝成、生涯

水野勝成、誕生

父:忠重、母:妙舜尼の間に嫡男として誕生。徳川家康と22歳離れた従兄弟という血筋である。幼名を国松、若名を藤十郎といった。

数多くの戦歴と武将:水野勝成

■1560年、桶狭間の戦い(まだ産まれていない)

尾張の大名であった織田信長が、駿河の戦国大名:今川義元を破った戦い。織田信長の世の始まり。群雄割拠の戦国時代。

■1564年、水野勝成誕生
■1579年、高天神城の戦い

忠重に従い勝成、初陣。勝成16歳にして首級をあげる。信長より「比類なき活躍である」と絶賛される。ちなみに徳川秀忠は、この年誕生。

■1582年、本能寺の変

織田信長の世の終わり。山崎の戦いで、明智光秀を豊臣秀吉が討つ。明智光秀の3日天下。

■1582年、天正壬午の乱

本能寺の変を発端にして、統治者不在となった甲斐、信濃、上野で起こった戦。勝成は、徳川家康の下で参加した。一番槍で内藤何某の他、数々の首級を討ちとる。

■1584年、小牧・長久手の戦い

羽柴秀吉VS織田信勝・徳川家康。この時、勝成は結膜炎を発症し目を病み鉢巻をし、兜をかぶらずに出陣。 父・忠重に「兜を小便壺にでもしたのか、尿なら尿筒にしろ」と怒られ、立腹した勝成は、「兜がないことで頭を割られても、それは時の運である」と一番槍。一番首を持って家康に持参した。 この戦いで、森長可が水野家家臣によって射殺され、以後、井伊直正と武勇を競い合った。

水野勝成、勘当され流浪の身へ

1584年、忠重の家臣を斬り殺したことにより、勘当。更に奉公構(出奔した家臣を召し抱えない用釘をさすこと)も出される。これにより流浪の身に。

斬り殺してしまった理由には、井伊直正のような赤備えのように目立たなければ、恩賞がきちんと貰えないと新しい甲冑の費用を捻出するように勘定方に願いでるも、断られたからという説があります。 また、そのような願い出を知った父:忠重が、勝成を叱責しケンカとなったところに仲裁に入った勘定方が、勝成の拳をくらい死に至ってしまったという説もあります。

本当のところは分かりませんが、家臣を殺してしまい、勘当された事は事実のようです。

■1587年、隈部親永の反乱(肥後国人一揆)

佐々成政に1000石で召し抱えられていた勝成は、一番槍をあげ、先鋒となった。この乱後成政は責任を問われ、切腹。

■1587年、黒田長政の船へ

備後国鞆の浦で、出奔。操船の手伝いを命じられ、「このようなことを言う主に仕えてたまるか!」と憤慨したといわれている。全く忖度をしない、婆娑羅な生き方。

■1588年、天草五人衆の反乱

小西行長に1000石で仕官。本渡城を落とす。

■1590年、豊臣秀吉、天下統一

その他、主君を代えること十数度...佐々成政、小西行長、加藤清正、立花宗茂...と錚々たる大物大名に召し抱えられるも、出奔し流浪生活をする。

8年間にも及ぶ、流浪生活の間のことは逸話があるが、定かではない。分かっていることは、備中国の三村親成の食客となり、世話役の娘に手をつけ、子供を設けたということ。この子供が、後の勝俊である。

再び、武将:水野勝成乱戦へ

■1598年、豊臣秀吉死去

豊臣秀吉が死去したことにより、再び戦火の元へ。

武士として血が騒いだのだろうか、勝手に日が暮れた18:00から、明け方の6:00まで家康の屋敷を警備をしているヤツがいた。 それが、水野勝成だった。家康は忠重に、「そろそろ勝成を許してやれ」と言い、父・忠重と15年ぶりに和解した。

その和解の直後、父忠重は石田三成からの「家康関係者を殺害することによって領地恩賞を与える」との書状を持った加賀井茂望により殺害された。

勝成は、三河国刈谷3万石の跡目相続をすることとなり、以後、家康の側近になった。

■1600年、関ケ原の戦い

石田三成VS徳川家康。家康方の勝成が任されたのは、大垣城。関ケ原で戦う家康の背後の城でした。家康が自分の背後にある城を預けたことが、信頼の証であり、勝成は大垣城を落とし勝利に貢献しました。 大垣城には、加賀井重望の息子・弥八郎がおり殺害することで父の仇をとった。

この戦いに負けた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が大阪・堺を引き回されている時、勝成は用意していた編笠を被せた。これは、かつて主君であった・行長への義理だと考えられている。

■1601年、日向守を名乗る

日向守という官位は、明智光秀が授かっていた。明智光秀といえば、謀反を起こして織田信長を本能寺の変で破り、豊臣秀吉に山崎の戦いにて自害し、三日天下で終わった人物。それ以来、大名の多くが忌み嫌い名乗った者はいなかった。

勝成はこの官位を受けた時、気にすることなく笑い飛ばし日向守を受け、その勇猛さから「鬼日向」とも呼ばれるようになった。

■1603年、江戸幕府が開かれる
■1614年~15年、大阪の陣

豊臣家と徳川家、日本に政権は2つもいらないと、徳川家康が方広寺鐘銘事件で因縁をつけ勃発。

勝成は大和口の総大将に任命。徳川家康より「昔のような一番槍の考えは、決してやってはいけない」と厳しく言われる。

ところが、後藤又兵衛の部隊と交戦し、家康の命を無視し一番槍をあげ、壊滅させた。

天王寺口において、真田幸村が家康まであわやというところで、水野隊が合流して真田隊は壊滅。 息子・勝俊も夏の陣で軍功を挙げました。勝成は2つの首級をあげ、大阪城桜門に一番旗を立てる。

■1616年、徳川家康死去

初代福山藩城主

■1619、10万国で初代福山藩城主へ

福島正則の改易に伴い福山10万国を与えられました。入封時の領地は、神辺城主でしたが、神辺城は過去に何度も落城した歴史があったことから、一国一城令が徹底されていた当時にしては珍しく新規築城が行われた。

中国地方周辺には、毛利・堀尾・池田・浅野などの外様大名の領地があり、西国への睨みを利かせる必要がありました。福山城には、一国一城令により廃城した伏見城ゆかりの20を超える建物(湯殿、月見櫓、鉄御門など)が使われ、 10万石の大名としては、あり得ない規模の城を伏見城の建物を再利用することにより、短期間で築きました。

その他に、福山城近くにある蓮池(蓮池公園)を築き、領民の飲み水を確保したり等、福山市の礎を築いた。

戦さという乱世が忘れ去られ、20年あまりの時が過ぎていきました。

勝成、最後の戦

■1630、島原の乱

江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、「鎖国」が開始。

松平信綱という老中が「島原天草のキリシタンが蜂起しました。万が一の時は、あなたをお呼びするかもしれません」と、訪ねてきた。討伐司令官の板垣重昌が討たれると、水野勝成は75歳で出陣することとなった。

この時、幕府には戦いの経験が少ない者ばかりで、戦に慣れていませんでした。一方キリシタン側は、殉教を重んじる信仰があり、喜んで死を受け入れているため、強さを発揮。 更にキリシタンと一般民衆だけでなく、改易された大名の家臣達が数多く含まれており、ある程度統率された戦いができたという。

兵糧攻め後の総攻撃では、息子・勝俊が出陣。父と同じく一番槍だった。

■1651、水野勝成死去

関ケ原にかかわった、徳川方最後の生き残りで、87歳という大往生だった。

参考図書:天を裂く 水野勝成放浪記(大塚 卓嗣 (著) )