種田山頭火

種田山頭火

1882年12月3日~1940年10月11日


本名:種田正一

乞食同然の放浪の旅を続けた、日本の自由律俳句の俳人


<詠んだ句>
「分け入つても分け入つても青い山」
「ほろほろほろびゆくわたくしの秋」
「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」 etc…


自由律俳句とは…
五七五で季語を必ず入れるという定型に縛られず、感情を自由に表現する俳句。
それでは、ただの詩じゃんと思うけれど、定型俳句から自由になろうとしている事で成立する俳句なのだそう。

種田山頭火の生涯

家族について

父・竹治郎、母フサの長男として出生しました。兄弟は、姉フク、山頭火、妹シズ、弟二郎・信一の三男二女でした。
父は女ぐせが悪く、金づかいの荒い人でした。当時の種田家は裕福でしたが、財産を食いつぶしてしまいました。
母フサは、竹治郎の芸者遊びや姑との折り合いの悪さから、自宅の井戸に投身自殺してしまいます。
この時、山頭火は11歳でした。この出来事が俳人・山頭火を形づくったと言われています。

相次ぐ姉弟の死

末弟の信一は、母が死んで凡そ一年後、風邪から急性の肺炎にかかり亡くなりました。
姉のフクは、山頭火が東京専門学校(現在の早稲田大学)に通い下宿している時に、正体不明の病で亡くなりました。
弟二郎は、母が亡くなった時、養子に出されました。そして、養子先から父が多額の借金をしました。 ところが、父はこの借金を踏み倒します。その怒りの矛先は二郎へ迎い、養親から縁を切られ追い出されてしまいます。
また、妹のシズは姉のフクが急死してから、後添えに入っていました。そこでも父は借金をしました。父はこの借金も踏み倒し、行方知れずとなりました。
そのため、養親から追い出されてしまった弟二郎には行く場所が山頭火の家しかありませんでした。しかし、放浪生活とお金のない山頭火の世話になったところで、二郎が肩身の狭い思いになることは間違いありません。二郎は次第に寄り付かなくなり、最後は岩国の山中で首つり自殺をしてしまいます。

結婚生活について

東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、神経衰弱のために大学を中退し山口県へ帰ると、父が縁談を持ってきました。 妻・サキノとの間に、息子・健が産まれます。 結婚生活は、山頭火の奇行(線路で自殺未遂など)、放浪、離婚、出家と妻・サキノは振り回され続けます。

放浪生活

1919年、妻・咲野と古書店を開業するも、軌道に乗らず、熊本に妻子を置いて東京へ。この一年後、サキノと離婚します。 ところが、1923年に関東大震災に遭い、熊本の妻子の下へ帰ります。この頃、路面電車を留める事件を起こし、出家します。 そして、托鉢をしながら放浪をします。 一か所に落ち着こうと思っては、留まっていられず。放浪する人生。お酒もやめられず、銭があれば酒を買う始末...。 放浪に生きる人生。放浪の中にしか人生を歩めない孤独。 父を憎みながらも、山頭火自身も酒に溺れ、妻子を顧みず放浪をし続けました。

種田山頭火ゆかりの地めぐり

  • 種田山頭火

    新山口駅
    (種田山頭火銅像)

    台座の文字は、山頭火の直筆を復元して刻まれている。

    住所 山口県山口市小郡下郷1294

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    山頭火生家跡

    850坪あった種田屋敷は残っていない。母親が身を投じた井戸が残っている。

    住所 山口県防府市八王子2-13-9

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    其中庵

    復元建物。1932年~1938年まで暮らした庵。ここで、最も充実した文学生活を過ごした。

    住所 山口県山口市小郡下郷1811