鍋島直正

鍋島直正

1815年1月16日~1871年3月8日


佐賀の七賢人の一人。

肥前国佐賀9代藩主・鍋島斉直の十七男として生まれる。


<キーワードとなる年表>
1808年、フェートン号事件
1815年、鍋島直正生誕
1828年、シーボルト台風
1830年、父の隠居の後を受け、17歳で10代藩主に
1835年、佐賀城二の丸全焼
1858年、御船手稽古所を設置
1861年、家督と長男・直大に譲って隠居
1865年、凌風丸就役
1867年、大政奉還
1871年(明治4年)、藩邸にて病没、享年58。

佐賀城へ訪問し手にとった「鍋島直正」という漫画を読み、名君すぎて眩しかったです。こんな上司、社長がいたら、旦那が仕事好きになってしまい、妻がワンオペ状態になってしまいそうです。

鍋島直正ゆかりの地めぐり

産まれる前の出来事

フェートン号事件

1808年に鎖国体制化の日本の長崎で起きた事件です。

イギリス海軍のフェートン号が、オランダ国旗を掲げ国籍を偽り長崎へ入国し、オランダ商館員を人質に食料などを要求しました。対する幕府は、一年交代で警備をしていた鍋島藩と福岡藩にイギリスの襲撃に備える事と、抑留・焼き討ちにする準備を命じました。

この時、長崎警衛当番だった鍋島藩は太平の世に慣れ、経費削減のため守備兵を無断で減らしていました。そのため、長崎には本来の駐在兵力の10分の一ほどの100名程度しか在番していなかったことが判明しました。それは、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援出兵を求めるほどでした。

フェートン号事件により、長崎奉行松平康英は責任をとった自ら切腹、当番だった鍋島藩は幕府から9代藩主斉直の逼塞の処分を受けました。

佐賀藩10代藩主・鍋島直正

就任直後は、財政破綻状態

佐賀藩主になり初入部のため、江戸藩邸を佐賀に向け出立するも、代金を支払っていない家臣たちが多く、商人たちが藩邸に押し寄せてきました。商人たちが借財返済を申し立てたため、藩士たちが動けず、進行を停止してしまいました。

更に、フェートン号事件以来、長崎警備等の負担が重く、先代藩主・斉直の奢侈や、シーボルト台風の甚大な被害もあり、支払おうにも藩邸の資金が枯渇していました。
就任早々、屈辱を味わい財政を必ず立て直そうと誓います。

佐賀藩の財政再建

第一に借銀を減らし、年貢収入で藩政を賄えるように質素倹約を掲げました。粗衣粗食を藩主自ら徹底します。しかし、先代藩主・斉直の奢侈に慣れた古参の重臣たちが多く反発されてばかりでした。
そんな中、佐賀城二の丸が火災により焼失してしまいました。それが、改革を断行する契機となりました。役人の三分の一を解雇するリストラを断行し、身分を問わず才があればどんな者でも重用しました。

第二に農地改革です。小作人が地主に支払う「小作料」を猶予しました。地主たちの抵抗はあったものの、農民たちの就労意欲は向上し、農村は安定しました。

最後に財政再建の仕上げとして、本丸御殿を再建しました。この時、行政組織を本丸に集め、スピード感を持って直正が直接指揮できるようにしました。

こうして見事、財政を立て直すことに成功し、"そろばん大名"と呼ばれるようになりました。

長崎警備の軍事力強化

フェートン号事件以後、一時的に警備は強化されたが、すぐに元通りになっていました。

1840年にアヘン戦争で清国がイギリスに大敗を喫したことで、日本国内を震撼させていました。そこで直正は、西洋の先端技術を取り入れて長崎警備を強化していきます。

1842年、佐賀城下に「蘭方稽古場」を設け、蘭伝石火矢製造所を設け大小の十製造に取り掛かりました。

1843年、青銅大砲が完成しました。これは薩摩藩よりも三年先駆けてのことでした。

1844年、パレンバン号を視察しました。藩主自ら乗り込み真剣に案内を聞きました。あまりの真剣さに案内をしていたコープス大佐から海軍創設を勧める忠告書が贈られました。

また、江戸幕府老中・阿部正弘に鉄製大砲鋳造のための「反射炉」の築造を進言しました。

やがて佐賀藩は、日本の産業革命は佐賀から始まったと言われる程に、当時の日本で最新最強の軍事力を持つようになっていました。それを示すエピソードの一つに、ロシアのプチャーチンが強硬的に開国を要求しようとした時、伊王島に設置された砲台を見て、終始友好的な態度で接しざるを得なかったそうです。

更に、佐賀藩は幕府が開設した長崎海軍伝習所へ多くの藩士を派遣して学ばせていました。そうして学んだことを藩内に広めるため、"御船手稽古所"を設けました。これが世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つ三重津海軍所の始まりとなります。

そして1865年には、国産初の実用蒸気船"凌風丸"が完成するのです。

幕末動乱

日本国内では尊王攘夷の動きが激化していました。

1855年に開かれたパリ万博に佐賀藩は参加しました。有田焼が「名誉大賞」を受賞しています。この時、反幕派と親しいイギリスは薩長を、それを知ったフランスが幕府を招待するという日本が英仏代理戦争の場と化しそうな出来事がありました。

そのため、日本を植民地化させることがあってはならないと、薩長からも幕府からも要請があったものの軍事の提供を控え、中立の立場を貫いていました。

そうした態度のなか、1868年に戊辰戦争が勃発しました。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が大敗を喫すると官軍に加わることを表明。これは、大きな内乱が避けられたのを見極めてからの参戦でした。上野戦争ではアームストロング砲を使用し、幕末最強の軍がついに動いた戦いでした。

明治に入って

海軍創立の建議書を明治政府に提出したり、ロシアの南下政策に警戒し、初代開拓使長官に就任しました。

実際に自ら現地に赴くことはありませんでしたが、島義勇を開拓判官に任命し、できることをできる限りやりました。<

佐賀藩の財政を建て直し、日本が海外の植民地になることのないよう軍事力に力を入れた名君は、1871年に58歳の生涯を閉じました。