紫式部

紫式部

1000年以上に渡り読み継がれている「源氏物語(54巻、登場人物500人以上という大長編物語)」の作者です。平安時代に恋をテーマに書き上げられました。一条天皇の中宮彰子に仕え、宮中の様子を紫式部日記に書きました。日本文学史を代表する女流作家です。


【百人一首に掲載の句】
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」
(訳)久しぶりに会えたのに、あなたなのかどうも分からないうちに帰ってしまったのですね。夜中の月が雲の間にさっと隠れてしまうように。

【年表】
970年~978年 藤原為時の娘として京都で生まれる
973年 母が亡くなる
984年 花山天皇が即位。父が官職に就く
986年 花山天皇が退位。父が職を失う。一条天皇が即位
996年 父が越前守となり、越前に移り住む。藤原道長が左大臣になる
998年 藤原宣孝と結婚
999年 娘・賢子が生まれる
1001年 夫が亡くなる
1005年 一条天皇の中宮彰子に宮仕えになる
1008年 「紫式部日記」を書き始める
1010年 「紫式部日記」を書き終える
1013年 「源氏物語」が完成
1014~1031年 逝去

紫式部の生涯

紫式部の家族

正確な生年は分かっていません。父は藤原為時、母は藤原為信の娘でした。幼少期の時に母を亡くしたと言われています。兄と姉がいたことが分かっています。元々、歌人や学者を輩出していた由緒ある家柄でしたが、祖父の代で没落していました。

それでも幼少期には、中国の漢詩文から日本文学までを読みこなしていました。父が弟に漢文を教えていると、側で聞いていた紫式部の方が先に覚えたという逸話があります。そんな様子を見て父は「男でないのが残念だ。紫式部が男でないのが私の運の悪さだ」と嘆いたといいます。娘に能力がある事を素直に喜べない、女性の身分が低かった時代でした。

紫式部は本名ではありません。それは、女性についての正式な記録に乏しく、本名が分かりません。父が式部省の役人だった事から付けられた、宮廷での呼び名に「源氏物語」の登場人物 "紫の上" にちなみ、紫式部と呼ばれるようになったと言われています。

父が花山天皇に仕える

東宮(皇太子の住居)の読書役をしていた為、東宮が花山天皇になり即位すると、そのまま儀式係の役人に選ばれました。

この時、宮仕えをする父に宮廷とはどんなところなのか知りたがり、話しを聞いた後は文に書き残していました。そして、紫式部にせがまれ、宮廷から書物を借りてくることもありました。

父は出世をしていましたが、花山天皇が出家すると、お役御免となり散位(位はあるものの職には就かない)となりました。そのため、もう宮廷のことが聞けないとがっかりした紫式部でした。

父が越前守になる

父の宮仕えが無くなってから10年後の春、関白藤原道隆の屋敷で、花見の宴が開かれました。藤原道隆の娘・定子は一条天皇の妃でした。定子は、「枕草子」を書いた清少納言が教育係でした。

その歌会に誘ったのが藤原為頼(おじ)でした。これを期に父は越前守となり、紫式部も越前に移り住むことになりました。

紫式部結婚

親子ほどの年の差がある藤原宣孝と結婚し、一人娘である藤原賢子を産みました。しかし、結婚して3年後に夫は病気で亡くなりました。

この時の気持ちを詠んだ紫式部の和歌が残っています。
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」
(訳)夫が煙となった夕方から、塩釜の浦にたなびく煙までもが慕わしい。

紫式部は夫を亡くし、これからどうやって生きて行こう…と悩みました。そうして、伴侶を失った悲しさ、寂しさ、それを紛らわせるために書き始めたのが源氏物語でした。

光源氏が様々な女性を好きになる源氏物語は、瞬く間に評判となりました。時の権力者である天皇の関白・藤原道長もその一人でした。

紫式部、宮仕え始まる

藤原道長もまた、娘の彰子を一条天皇の妃にしました。紫式部をスカウトし、教育係に迎えました。

その宮中の生活を書き記したのが「紫式部日記」で、宮中でのプライバシーなどない噂にまみれた生活や、彰子の初の出産、男子誕生に喜ぶ父・道長の姿などを克明に観察し、書き記しています。

平安時代の習慣や儀式、貴族の暮らしが書かれており、当時の様子を知る事ができる貴重な資料になっています。

また、実際に顔を合わせることありませんでしたが、紫式部と清少納言はライバル関係にあり、日記の中で清少納言を批判しています。紫式部がどんな人物であったかも触れられます。

紫式部の娘

小倉百人一首に掲載されている「大弐三位」が紫式部の娘です。

【百人一首に掲載の句】
「有馬山 ゐなのささ原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」
(訳)有馬山の近くにある猪名の、笹原に生える葉が、風に吹かれてそよそよと音を立てる。そうよ、そうよ、どうして私が貴方を忘れたりするでしょう。忘れませんよ。

長い間、会いに来ることがなかった恋人から「忘れてないでしょうな」と歌が送られてきたので返答した歌です。恋人に不満を言う内容の中に洒落を効かせています。

紫式部の晩年

一条天皇が病気で亡くなると、紫式部は宮仕えをやめたと言われていますが、詳しいことは分かっていません。そして、亡くなったのは1014年頃だろうという予想で、紫式部がいつ亡くなったのか、はっきりしていません。

紫式部の生きた平安時代

平安時代は、貴族の藤原氏が、娘を天皇の妃にして、その子供を天皇にして勢力を拡大していきました。天皇が幼い時は摂政、成長すると関白という職に就き、天皇を補佐して政治の実権を握りました。

中国の唐が衰えると、日本独自の文化である国風文化が花開きました。漢字よりも易しく簡単に使える「かな文字」が発達し、女性に喜ばれ沢山の日記や物語が書かれるようになりました。

紫式部ゆかりの地めぐり

  • 宇治橋

    宇治橋

    日本三古橋。源氏物語に登場する橋。紫式部の像があります。

    住所 京都府宇治市宇治

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    廬山寺

    紫式部の邸宅址であるといわれています。

    住所 京都市上京区寺町通り広小路上る北之辺町397

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    宇治源氏物語ミュージアム

    「源氏物語」や平安時代について解説しています。

    住所 京都府宇治市氏東内45-26

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    風俗博物館

    光源氏の邸宅六條院の模型や、平安時代の様子を展示しています。

    住所 京都府京都市下京区新花屋町通り堀川東入る

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    石山寺

    紫式部が「源氏物語」を書き始めたと言われる寺。

    住所 滋賀県大津市石山寺1-1-1/p>

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    雲林院

    紫式部が晩年を過ごしたといわれる地。源氏物語で光源氏が藤壺に拒まれて出家しようとした話で登場します。

    住所 京都市北区紫野雲林院町23

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    紫式部墓所

    古くから言い伝えられているお墓。

    住所 京都市北区紫野西御所田町

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