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ジョサイア・コンドル

1852年9月28日~1920年6月21日


幕末にやってきたお雇い外国人として、歴史教科書に出て来ます。
鹿鳴館を手がけた建築家として有名です。
弟子には著名な建築家が並びます。


<主な作品>
■ 鹿鳴館
■ ニコライ堂
■ 旧岩崎庭園洋館&撞球室」etc…

ジョサイア・コンドルは、日本の歴史教科書で、鹿鳴館を作った人として登場します。
西洋化を推し進める明治期の日本には、外交の場として重要な場でした。
しかし、鹿鳴館の建築は失敗だったといわれています。そのため、来日してコンドルに任せる予定だった幾つかの巨大プロジェクトから、次々に外されてしまいました。
それでも、本国イギリスに帰国することなく、日本人妻と娘と暮らし、日本で生涯を閉じたコンドルについて調べてみました。

現存するジョサイア・コンドル作 建築

  • ニコライ堂

    ニコライ堂

    日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築。

    住所 東京都千代田区神田駿河台4-1-3

  • 旧岩崎庭園洋館

    旧岩崎庭園洋館&撞球室

    岩崎財閥3代目、岩崎久彌の邸宅。様々な建築様式が施されている。

    住所 東京都新宿区西早稲田1-6-1

  • 旧古河庭園

    旧古河庭園

    春と秋に咲くバラが洋館を優雅に彩る。

    住所 東京都台東区上野公園4-58

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    六華苑

    二代目諸戸清六の新居として建造。ヴィクトリア朝洋式を基調とした洋館。

    住所 三重県桑名市桑名663-5

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    島津家袖が崎邸

    島津家第30代当主 島津忠重公の邸宅。イタリア・ルネサンス様式の洋館。

    住所 東京都品川区東五反田3-16-21

ジョサイア・コンドルの生涯

来日前のジョサイア・コンドル

<生誕地ロンドン>

産まれたのはヴィクトリア朝のイギリス・ロンドンです。ヴィクトリア朝期のイギリスは産業革命の真っ只中でした。まさに、イギリス帝国の絶頂期であったといわれています。
しかし、ロンドンの街の成長の裏では、噴煙、騒音、人口集中、貧困と様々な社会問題を抱えていました。
そんなロンドンでコンドルは、産声をあげました。コンドルの父は銀行員で、当時のイギリスでは、エリートサラリーマンでした。

1864年、コンドルが12歳の時、父が急逝します。一家は貧しくなり、教育を受けるには自力で身に着けなければならなくなりました。

コンドルは、母子家庭子弟教育のために設けられた奨学制度を利用します。せめて基礎的な知識だけは身に着けなければ仕事も選べなくなる時代が来るかも知れない。そこで、選択したのが名門校ベトフォード商業学校(今でいう中学校)でした。

<建築家としての勉強>

ベトフォード商業学校を卒業後、トーマス・ロジャー・スミス(祖母の妹の息子)の建築事務所に建築家見習いとして入所します。また、見習い修行の傍ら、ゴシック建築の基礎を身に着けるため、サウスケンジントン美術学校(美術と工業の融合を目指した学校)にも通っていました。

次に、5年間の見習い修行を終えたコンドルは、ウィリアム・バージェスの事務所で助手として働きます。今度は助手の傍ら、ロンドン大学ユニバーシティカレッジの美術講座に通いはじめました。 バージェスがコンドルに影響を与えた事といえば、浮世絵など日本文化のコレクションをしていたことです。コンドルは、異国趣味に関心を抱いたゴシック・リバイバリストのもと働いていたのです。これが日本招致への承諾に繋がったのかも知れません。

ウィリアム・バージェスの事務所で1年間助手を務めたあと、グランド・ツアーに出かけます。グランド・ツアーとは、イギリスの伝統的な子弟教育の総仕上げの旅なのだそうです。
グランド・ツアーから帰ると、バージェス事務所を辞め、画家の工房に入ります。工房では、ゴシック様式に欠かせない、ステンドグラスの製法を学ぶために弟子入りしました。
このように勉強熱心に技術や知識を習得し、建築家への準備を着実にしていきました。

コンドルのデビューは、一流建築家への登竜門であるソーン賞の受賞。イギリスで最も権威ある建築界の新人賞で、応募した年の課題は「カントリー・ハウス」でした。 将来を嘱望される若手建築家の誕生です。

<日本への招致>

明治期の日本は必死に、西洋化させようとしていました。でも、技術者がいません。そこで、工学寮(のちの工部大学校)を設置します。殖産興業という国家政策を担う人材を育てようと養成学校を設立しました。

コンドルはソーン賞を受賞してすぐ、実作のないまま破格の値段で日本へ招致されました。
何故、破格の値段を払う必要があったのか?それは、コンドル以前の賞の受賞者にも声がかかっているはずなのに、誰も来日しなかったのです。本国イギリスを離れて、極東の小国に建築家が行くということは、建築の流行に乗り遅れてしまい、イギリスではブランクになる行為だったからです。
流行の速度は目まぐるしく一度逸れてしまうと、追い付くのは大変な労力がいります。

それなのに、ジョサイア・コンドルが日本へ行った理由は何なのか?建築を学んできた土壌が、異国趣味を持つロマン主義だったからじゃないかと、推測されています。

日本での挫折と活躍

<コンドルの日本での仕事>

契約は、1877年~5年間の予定で、コンドルの主な仕事は3つでした。

■ 教育(技術者の育成)
弟子に東京駅を手がけた辰野金吾、小笠原伯爵邸の曽禰達蔵、赤坂迎賓館の片山東熊など、そうそうたる面々が並びます。
辰野金吾はジョサイア・コンドルの後、二代目学長に就任しました。多くの弟子を輩出し、大成功でした。

■ 皇居新宮殿の造営→頓挫&中止
地震の多かった日本で、新宮殿を建てるために、コンドルは地盤をしっかり調査しました。調査したうえで、基礎工費を弾き出しますが、日本政府は金額に仰天!結局、西洋建築の新宮殿の建築は取り止めになりました。コンドルの地質調査が万全だったが故に頓挫してしまいました。

それをひっくり返したのが榎本武揚でした。宮内省御用掛に就任早々再び西洋建築の新宮殿を提案しました。場所を変えて地盤を調査したところ、最も丈夫な地盤が見つかったのでした。
任期切れで帰国間近だったコンドルは、皇居新宮殿造営のために再雇用されることになりました。 ところが、設計も出来上がったという段階で、榎本武揚とが清国全権大使として日本を離れることになりました。 そこで代わりに入ってきたのが、宍戸璣でした。これまた急展開で、新宮殿建築計画の進捗がぱたりと止まってしまうのです。おそらく、造営費が払えぬという理由でコンドルに連絡もなく計画が中止になってしまったようです。

コンドルの知らないところで、再検討が行われ中止に…あんまりです。ロンドン帰国に錦を飾れる機会だったコンドルにとって、痛手でした。

■ 西洋諸都市に劣らぬ日本の帝都東京の建設→失敗
鹿鳴館の建設が挙げられます。完全なる西洋の建物を作って欲しかった日本に対して、 コンドル作った鹿鳴館は、西洋建築にインド・イスラム様式を取り入れたものでした。それは、日本に西洋建築を馴染ませるために施されたものでしたが、大きなお世話でした。

もう一つ託されたのが、宮庁集中計画です。コンドルの都市計画はドイツのエンデ・ベックマン事務所に取られてしまいます。ここで、経験不足が露呈してしまう結果になったのです。国家の威信をかけた一大事業にしては個人主義的過ぎたのでした。
それは、実作もなく日本へやってきたコンドルにとっては仕方のない事だったのかも知れません。

教育者としての成功したけれど、日本の首都を建設するのは、新人建築家には荷が重すぎました。日本の首都を建築するのは無理だったとコンドルは知ることになりました。この挫折は、コンドルを成長させ、邸宅建築において傑作と呼ばれる才能を見せることになりました。

<一時帰国からの日本永住を決意 >

1886年、来日以来初めての帰国をします。来日してから、9年もの月日が過ぎていました。
一時帰国をして日本永住を決めたのではないかと言われています。理由としては、日本に長くいたため、ロンドン訛りがとれてしまった。街が変わりすぎていて面白くなかった。汽車で外国人と間違われて喧嘩をふっかけられてしまったというエピソードがあります。

それは建築も同じで、ヴィクトリアン・ゴシックからクイーン・アン様式へと移っていました。日本では、政府の仕事はなくなっても、民間の仕事がありました。変わり過ぎて面白くないロンドンよりは、やっと自分らしく仕事が出来るようになっていたコンドルには日本を選んだのです。

<日本人妻くめと結婚>

もう一つ日本永住を決意したであろう理由に、日本人妻との結婚がありました。コンドルには、一人娘のヘレンがいました。ヘレンはくめとの間の子ではなく、実母は不明です。
ヘレンは、スウェーデン海軍中尉のデンマーク人と結婚し、6人の子供を授かりました。第一次世界大戦中には、末っ子以外の5人の孫たちが日本へ疎開したため、コンドルは、孫5人と生活をしていたことがありました。賑やかだったでしょうね。

<多趣味なジョサイア・コンドル>

演劇に夢中になり、東京演劇音楽協会に入っていました。早稲田大学演劇博物館にはコンドルによって描かれた舞台装置のスケッチが残されています。
河鍋暁斎の弟子になり日本画を学び、暁英の号を授かります。その他にも、日本舞踊、華道、落語など日本文化を大いに嗜みました。

<妻のあとを追うように逝去>

■ 大正9年4月18日
上野精養軒で、建築学会主催の「ジョサイア・コンドル博士表彰式」が開かれました。これが、コンドルが公式の場に姿を現した最後となりました。

■ 大正9年6月10日 妻くめ逝去
コンドルへの看病による過労が原因で、突然倒れ、息を引き取りました。

■ 大正9年6月21日 コンドル逝去
妻が亡くなってから僅か11日後、脳軟化症によりジョサイア・コンドルは永眠しました。67歳でした。

新人建築家だったジョサイア・コンドルが日本で味わった挫折。挫折をしたからこそ、目覚めた邸宅建築。
今私は、コンドルが建てた邸宅建築をを散歩や旅行で見に行くことを楽しみの一つにします。 建築の知識が全くないけれど、今回調べてみたことで、西洋建築だけではなく、異国の要素がプラスされていることが分かり、見方が変わりそうです。

ジョサイア・コンドルゆかりの地めぐり